ことばを捧ぐことについて
赤塚不二夫が死んだ。タモリが森田義一で弔辞を奏した。
出会いと、突然な「わたしもあなたの一作品です」的なこと。タモリはマンガではない。ってのを知ってていったんだろうけど。芸能”界”にいれるってのは、マンガとは全然関係ない。だろうに。
故人を思う気持ちはそれぞれだけど、
弔辞という場では、包括的な意味で故人と自分との関係を提示することが求められる。
とおもう。2、3例しか知らないけれども。
故人を包括する以上、弔辞であれば、故人に匹敵する文章を奉じなきゃ失礼でしょ。(弔辞でなければ、文章でなくてもいいけど)。どの次元/立場は別にして。
それが、マスの前でできていたのは、磯崎新だと思う。
すべてが凄い。きれい。だった。
自分の求めてきたことと、手に入れずにいることが精確にわかるし。
それを手に入れているのは、故人だけだっていうし。
それを裏付けるハクがあるし。(日本のケンチクトップは、誰がなんといおうと磯崎だから)。
以下、無断転載。(転載元:磯崎新「磯崎新の思考力」王国社)
弔辞
丹下健三先生
先生の手掛けられた数多くの建築のなかでも、とりわけ気品にあふれ
聖なる空間へと昇華したかにみえる、もっとも気に入っておられたに違いない
この東京カテドラルに、今日は大勢の弟子どもが参集しております。
おわかれに来たのではありません。たった一言でもいい。最後のお言葉を聞きたい。
<建築>そのものに化身されていた先生のお言葉がまだ聞けるのではないか、
そんな想いでここにいるのです。
お前たち、本当に俺の弟子か、とにが笑いなさっているかもしれませんが、
私たちは皆、そのように考えております。
あるものは直接手をとって教えていただきました。
あるものには、鋭く行く先を示されました。
あるものは、はるかにお仕事ぶりを拝見して、先達と心に決めてまいりました。
だが不肖の弟子どもよ、とお叱りを受けそうな気がします。
このうち誰が、先生の抱かれた壮大な構想のほんのかけれあでも受け継ぎえているのか
みずからをかえりみて忸怩たるものがあります。
建築することとは、単に街や建物を設計することではない、
人々が生きているその場すべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、
それを眼に見えるよう組みたてることだ。
これが、私たちが教えていただいた<建築>の本義であります。
先生はこの本義を体現されていました。
<建築>の化身だと私が考える由縁であります。
丹下健三先生が活躍を始められた二〇世紀中期の日本では、国家がそのような建築を望んでいました。
先生の比類のない構想力が思う存分発揮されました。
このとき日本の近代建築は世界のものになりました。
いまでは、二〇世紀の世界の建築史はケンゾウ・タンゲの名前をはずしては語れなくなったといえるでしょう。
我が師の栄誉をたたえよう、
弟子どもだけでなく、日本という国家もそういうでしょう。
だが、と柔和な顔をされながら、鋭い目の奥底から、我が師は語りかけられているように私は感じているのです。
君たちはいったい、これから何をやろうとしているのかね。
私は半世紀以上も前にこの国家の肖像を描いてやったのだよ。
何にとつとして満足できる時代じゃなかった。そんなきびしいなかでも
<建築>するという志さえあれば、その肖像は生み出すことができた。
ところがこの満ち足りた時代になってみたら、日本という国家はさまよっている。
<建築>が消えている。
わが弟子たちよ、いったいどういうわけなのか。
丹下健三先生はこういって、嘆かれていると私は思うのです。
ウィルという言葉には意思とともに、遺言という意味があります。
先生の遺された作品の数々がそのままウィルにあてうるでしょう。
だがそれだけではない。もうひとつの意味である意思、
つまり<建築>を構築しようとする意思、それを忘れてはいけない。
半世紀に渡ってひとりの弟子として師事したあげくに私はやっと、これだけの推量ができるようになりましたが、
不肖の弟子のひとりとして、これが並々ならぬ難問であることがいま身にしみてきつつあります。
そこで、私は誰もが口にする、やすらかにお眠りくださいという
決まり文句をいいたくありません。
丹下健三先生、眼をみひらいて、見守っていてください。
弟子どもが道をふみはずさずに、先生の意思を継いでいくことができるかどうかを。
弟子の甘えで、申し上げました。
弟子のひとり
磯崎 新
二〇〇五年三月二五日
弔辞を好むわけではないけれど、よい。
「存在」と「存在とは別の仕方」を、それぞれ感じてるって気が凄くする。当たり前なwillの二義的解釈をあえてしたのは、表象的。
古典的な日本でいえば、「御魂」「荒御魂」ってとこか。
とまれ、もちろんこの文章はア教的ともよめるし、ア教的ではないともよめるし、
もちろん磯崎はレヴィナスを読んでるはずだけど、
それはそうとして、好ましい。汎神論バンザイ。



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