ごめんなさい。
前言撤回します。
なんとなく喧嘩して、親の前ではお酒は飲まないことにした。
理由はくそむかつくからかかない。
アル中がどうした?おれのじいちゃんとは関係ないし。
あなたに何かしたんですか?
この口調、すでにやばいしおかしいなあ。
sakihito affiché à
00:08
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さっきみたどっかのブログのはなし。酔ってるのでどこかは忘れてしまいました。ごめんなさい。
一般的にはどうかは知らないけれども、
お伊勢さんの内宮外宮にアマテラスやトヨウケのおかみにあらせられては、そちらにおわす。それぞれ。
同様に、高天原から降臨ましましたお方たちは、それぞれこの国津におわしました神々を威嚇し、我国とされました。(古事記の国ゆずりの朧げな既述...)。
神も、荒神も、どっちももともとはおんなし神格。
ただ、おましますか、荒ぶるかのちがい。
日本人は神の仔で、その神が畏れ多い天の原におわしましても、現世の国の津におわしわしても、おわしました方々は、客観的には精神が分裂していることが興味深い。
オレは正統な統治者の子供たちのシモノモノなんだ!って言葉にしたい。
せめて奏上可能であれば、
ぼくは月読(ツクヨミ)の庇護を賜りたい。
なんといっても、月読/月夜見/月弓、っていうそれぞれの崇拝のなされ方をされておられるから。
#20081015
敬語尊敬語謙譲語あってんのかなあ。神は神じゃなく、(God be not kinds of saint)だから、これはあってるかも。慇懃無礼って気は皆無なのでごめんなさい。
sakihito affiché à
03:04
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はだしのゲンをはじめて見たのは、
小学校2年生のときの、多分8月15日、つまり夏休みを告げる蝉が鳴きやんだころに、当時の服織西農協の二階で、だった。
当時っていっても、まだ20年程度まえ。その頃でも、八月も上旬を過ぎると、町内会で肝試しとかあった気がする(さすがにお盆にかけてはやんないよね。なんかあったらやだし、たぶんなんかあるし。)。同時に、七月から始まっていた自由プールが終わる時期でもあり、公的な行事の終わりとして、父兄主催?の平和映画上映会があって、それがそれだった。
ただし、夕方でもなく夜でもない、つまり宵の口ちょっと前の悪い時間に。
2本立て逐次上映的に「はだしのゲン」と、もうひとつ「トビウオの坊やは病気です」をみた。
どっちも核兵器の被害を全面に伝えようとしているってのは、わかった。
どっちも、悲しかった。
ただ、はだしのゲンととびうおのボウヤが、おんなじ悲しみを抱いているとは、子供心に思えなかったんだ。
ひとつは、映画の中身でいうところのもの。
ゲンが失ったのは肉親の一部。家族の一部だよね。
トビウオの坊やが失ったのは、家族全体というか、ただただ自分だったはず。
つまり、ゲンが家族を失ったその後を生きていかなくてはいけない悲しさを内包できていたのは、ただ生きていかなくてはならないっていう現実が外側にどかんとあったから。
家族に生き残っている君江やら友子やらがいるから、その悲しさは内に押しとどめなくてはならないし、だからこそ隆太っていう他人にも理解され、カヴァーできてる。曲がりなりにも。
反対に、坊やの悲しみは霧散しているっていうか、もうそんな悲しみを感じる必要ないよね。死んでるし。
もう少しいえば、僕は8歳だった。
PTA主導で、その映画を見る計画が進められていたと思うんだけど、その映画を見るときにお菓子を配られた。
子供はお菓子に弱いんだ。
だけど、
僕はそこそこ頭がよい子供だったので、お菓子を配る意味を判っていた。
その映画を見るときに配られたポッキンアイスが、その悲しさを軽減させる道具だって。
あんな暴力的な映画、こわいよ。
肝試し以上にこわい。ポッキンアイスじゃあ懐柔されないよ。
同時8歳の僕は、そう思った。もうすこしやさしいことばで。
「そんなお菓子ではムリ」
だったはずなのに...
今思うとなにがこわいか。
だって、不条理にいろいろ死ぬわけではないから。
ものすごく、物理的に正当な、圧倒的な力で。
ちゃんとした理由で、いっぱいしんじゃってくんだ。
その気持ちを代表(representation)してくれているのが下の呉。
「不条理な運命に抗して」 呉智英
読者の皆さんにちょっと聞いてみたい。この「はだしのゲン」は
どんなマンガだと思いましたか、と。
おそらく、ほとんどの読者が、反戦反核を訴えたすばらしいマンガだと思った、と答えるだろう。読者が「はだしのゲン」を手にとるきっかけとなった先生や、両親や友人の言葉も、これとほとんどちがわなかったはずだ。反戦反核を訴えたすばらしいマンガだから、ぜひ読んでほしい。と薦められたことだろう。
中には、少しへそまがりな人もいて、反戦反核を訴えたお説教臭いマンガだから、読みたくなかった、と答える人もいるかもしれない。
こうした答えは、ある「定説」に支配されている。その「定説」とは「はだしのゲン」は反戦反核を訴えたマンガであり、反戦反核訴えたマンガはそれ故に良いマンガであり、反戦反核の思想は正しい思想である、というものだ。
しかし、この「定説」は本当に正しいのだろうか。
何の知的検証もない一種の迷信にすぎないのではないだろうか。ひょっとしたら、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えたマンガでないかもしれない。反戦反核を訴えたマンガの故に良いマンガだ、という評価の仕方もまちがっているかもしれない。
第一、反戦反核という思想そのものに正しいという保証はないかもしれない。
長年、「はだしのゲン」を愛読し、そのすばらしさをあちこちに書き、大学でマンガ論の講義のテキストとして使っている私は、この「定説」に対して大きな疑問を持っている。
そして、「はだしのゲン」という傑作マンガが、こんな「定説」に従ってしか読まれていない現状をきわめて残念に思う。
この「定説」が何の知的考証にも耐えないことをすこし詳しく述べてみる。まず、反戦反核という思想が正しいとは限らない、ということについて考えてみよう。人類は、第二次世界大戦後の半世紀、大国間戦争を体験していない。小国間の局地的戦争や内戦・民族紛争は、不幸なことにいくつもあったし、今もなおある。
しかし、20世紀前半二度に亙って人類が体験したような世界規模の大戦争は、この半世紀なかった。
それに代わってこの半世紀の間にあったのは「冷戦」という偽りの平和であった。米ソ両大国中心にした東西陣営が核兵器で脅しあいながら維持してきた奇妙な平和であった。しかし、偽りの平和であっても平和は平和である。真実の戦争と偽りの平和のどちらを選ぶかと問われたら、ほとんどの人がとりあえず偽りの平和を選ぶはずだ。
では冷戦という偽りの平和はどのように保たれたのか。今も書いた核兵器による脅しあい、いわゆる「核均衡理論」によってである。核兵器は一度使用されれば、たちまち起きる報復攻撃の繰り返しによって、全地球規模での破壊をもたらす。それが怖くて核兵器は実際には使用できず、平和が保たれる。そのためには、観念的な平和主義や核アレルギーとは違ったリアルな軍事観・政治観が必要である。 ざっと こんな理論である。
私はこの核均衡理論はおおむね 正しかったと思う。現に五十年間の長きに亙って人類は悲惨な大戦争を体験せずにすんだのだから。
では、それならば、リアルな軍事観・政治観を欠く観念的な平和主義や核アレルギーはまちがっていたのか。まちがってなどいない。本来、核均衡理論は、観念的な平和主義や核アレルギーの広汎な存在がなければ成立しない理論である。核兵器が通常兵器とは比較にならないほど恐ろしい兵器であるからこそ、双方ともに攻撃に踏み切れない、というのが核均衡理論だ。もし、核兵器が恐ろしくないという誤解が広まったら、いつ戦争が始まったかわからない。核はいやだ、理屈抜きに原爆はいやだ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡理論を支えているのである。
こう考えてくると、反戦反核という思想が正しいとは言えず、かといってまちがっているとも言えない、ということがわかってくるだろう。
そうだとすれば、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガであるという理屈も成り立たなくなるし、これとは逆の、反戦反核を訴えたイデオロギー色の強いけしからんマンガだという理屈も成り立たなくなる。
そもそも、何かを訴えたマンガが、何かを訴えているが故に良いマンガという評価の仕方に疑問もある。こうした評価の仕方だと、そのマンガの訴えが誤っていたら、マンガ自体を否定しなければならなくなる。もっとも、マンガ自体が否定されてもしかたがないような作品もある。それは、訴えを除いてしまったら、何も残らないようなマンガだ。政党や宗教団体の宣伝マンガが、その好例である。
マンガにしろ、美術にしろ、文学にしろ、何かを訴えるということは評価の基準にならない。その訴えた何かが正しかったか、まちがっていたのかなど、本質的な問題ではない。反戦を訴えようが、逆に好戦を訴えようが、また、反戦も好戦もその他の何も訴えていなかろうが、良いマンガは良いのだし、良い美術は良い美術なのだし、良い文学は良い文学なのある。それよりも、人間を描けているか、人を感動させるかが、作品を評価する基準になるのだ。
「はだしのゲン」は、この意味においてこそまさしく傑作マンガである。
「はだしのゲン」は1973年から74年にかけて前半部分が「週刊少年ジャンプ」に連載され、 後半部分は1975年から76年まで、「市民」、1977年から80年まで「文化評論」、1982年から87年まで「教育評論」に連載された。
私はこの前半部分は雑誌連載時に愛読し、後半部分は単行本となってから読んだ。連載中に読んだこともあり、前半部分の印象は特に鮮烈である。
とりわけ、その土俗的な表現には、しばしば心をゆさぶられた。ゲンが浪曲を演じて米をもらうシーン、政二が怨霊となって蘇るシーン、そして亡き友子を浜辺で荼毘に付すシーンは全編中の白眉である。これが近い事実を作者の中沢啓治が自ら体験したか間近で見聞きしたのだろうが、巨大な災厄に民衆がどのように立ち向かい、不条理な運命をどう受容するか、見事に描きだしている。
今、私は「巨大な災厄」と言い、「不条理な運命」と言った。あるいは反論が返ってくるかもしれない。原爆は自然災害ではない、単なる運命ではない、「落ちた」のではなく「落とされた」のだ、と。 当然である。
広島とその三日後の長崎への原爆投下は、自然災害ではなく、アメリカ軍による無差別殺戮なのだ。しかし、それは政治の言葉である。反戦運動をも含む政治運動の言葉である。私は、政治運動を否定しない。政治運動の重要性を認める。従って、政治の言葉を否定しないし、政治の言葉の重要性を認める。原爆投下は天災ではない。その政治責任を、道義的責任を問うことは必要である。
だが、人間は政治のみによって生きているのではない。人間は政治の言葉のみによって語られはしない。政治に還元できない感情の葛藤も、あまりにも苛烈な政治現象である戦争も、人々は災厄と受けとり不条理な運命だと考える。
そこに、民話が生まれ、 伝説が生まれ、叙事詩が生まれ、文学が作られ、美術が作られ、マンガが作られる。
「はだしのゲン」の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば、「はだしのゲン」は稚拙な政治的マンガだということになってしまう。そうではなく この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。
稚拙な政治的言葉しか持ちえなくても、それでも巨大な災厄に立ち向かおうとする人々の軌跡なのだ。
私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。
この不幸な読まれ方以外に「はだしのゲン」の読み方はないのか。
もちろん、ある。
素直に読むことだ。そして、素直に感動することだ。とってつけたような政治の言葉でそれを説明しないことだ。その時、作中人物に稚拙な政治的言葉しか語らせられない 中沢啓治のもどかしさも感じられるだろう。歴史的災厄を体験した人の悲しみは、そんなにも深い。その深みを埋めるために、人間は作品を作る。
中沢啓治もまた「はだしのゲン」を描いたのである。
一九九六年 六月作
『この「凶悪な神話」を読むと、現実のちゃちな暴力衝動も消えてしまうだろう。』
sakihito affiché à
10:38
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もとは借力より
なまじ位置関係を知っているよりも、知らない方が面白いかも。「なまじ」よりかわ、ね。
本気で位置関係を知っているにこしたことはないけど。
あと、これって「アトラス」シリーズににてるなあ。「光が射してきました」「雲がかかってきました」もそうだけど、地図をつくっていくっていうこの感じが。
浮遊都市SAGAなんてとこ、マチュピチュ以外にもあった気がする。バベル?その図書館?
ついででもうひとつ。
sakihito affiché à
19:48
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赤塚不二夫が死んだ。タモリが森田義一で弔辞を奏した。
出会いと、突然な「わたしもあなたの一作品です」的なこと。タモリはマンガではない。ってのを知ってていったんだろうけど。芸能”界”にいれるってのは、マンガとは全然関係ない。だろうに。
故人を思う気持ちはそれぞれだけど、
弔辞という場では、包括的な意味で故人と自分との関係を提示することが求められる。
とおもう。2、3例しか知らないけれども。
故人を包括する以上、弔辞であれば、故人に匹敵する文章を奉じなきゃ失礼でしょ。(弔辞でなければ、文章でなくてもいいけど)。どの次元/立場は別にして。
それが、マスの前でできていたのは、磯崎新だと思う。
すべてが凄い。きれい。だった。
自分の求めてきたことと、手に入れずにいることが精確にわかるし。
それを手に入れているのは、故人だけだっていうし。
それを裏付けるハクがあるし。(日本のケンチクトップは、誰がなんといおうと磯崎だから)。
以下、無断転載。(転載元:磯崎新「磯崎新の思考力」王国社)
弔辞
丹下健三先生
先生の手掛けられた数多くの建築のなかでも、とりわけ気品にあふれ
聖なる空間へと昇華したかにみえる、もっとも気に入っておられたに違いない
この東京カテドラルに、今日は大勢の弟子どもが参集しております。
おわかれに来たのではありません。たった一言でもいい。最後のお言葉を聞きたい。
<建築>そのものに化身されていた先生のお言葉がまだ聞けるのではないか、
そんな想いでここにいるのです。
お前たち、本当に俺の弟子か、とにが笑いなさっているかもしれませんが、
私たちは皆、そのように考えております。
あるものは直接手をとって教えていただきました。
あるものには、鋭く行く先を示されました。
あるものは、はるかにお仕事ぶりを拝見して、先達と心に決めてまいりました。
だが不肖の弟子どもよ、とお叱りを受けそうな気がします。
このうち誰が、先生の抱かれた壮大な構想のほんのかけれあでも受け継ぎえているのか
みずからをかえりみて忸怩たるものがあります。
建築することとは、単に街や建物を設計することではない、
人々が生きているその場すべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、
それを眼に見えるよう組みたてることだ。
これが、私たちが教えていただいた<建築>の本義であります。
先生はこの本義を体現されていました。
<建築>の化身だと私が考える由縁であります。
丹下健三先生が活躍を始められた二〇世紀中期の日本では、国家がそのような建築を望んでいました。
先生の比類のない構想力が思う存分発揮されました。
このとき日本の近代建築は世界のものになりました。
いまでは、二〇世紀の世界の建築史はケンゾウ・タンゲの名前をはずしては語れなくなったといえるでしょう。
我が師の栄誉をたたえよう、
弟子どもだけでなく、日本という国家もそういうでしょう。
だが、と柔和な顔をされながら、鋭い目の奥底から、我が師は語りかけられているように私は感じているのです。
君たちはいったい、これから何をやろうとしているのかね。
私は半世紀以上も前にこの国家の肖像を描いてやったのだよ。
何にとつとして満足できる時代じゃなかった。そんなきびしいなかでも
<建築>するという志さえあれば、その肖像は生み出すことができた。
ところがこの満ち足りた時代になってみたら、日本という国家はさまよっている。
<建築>が消えている。
わが弟子たちよ、いったいどういうわけなのか。
丹下健三先生はこういって、嘆かれていると私は思うのです。
ウィルという言葉には意思とともに、遺言という意味があります。
先生の遺された作品の数々がそのままウィルにあてうるでしょう。
だがそれだけではない。もうひとつの意味である意思、
つまり<建築>を構築しようとする意思、それを忘れてはいけない。
半世紀に渡ってひとりの弟子として師事したあげくに私はやっと、これだけの推量ができるようになりましたが、
不肖の弟子のひとりとして、これが並々ならぬ難問であることがいま身にしみてきつつあります。
そこで、私は誰もが口にする、やすらかにお眠りくださいという
決まり文句をいいたくありません。
丹下健三先生、眼をみひらいて、見守っていてください。
弟子どもが道をふみはずさずに、先生の意思を継いでいくことができるかどうかを。
弟子の甘えで、申し上げました。
弟子のひとり
磯崎 新
二〇〇五年三月二五日
sakihito affiché à
21:52
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かなしいけどここしばらくやられてる。
相武紗季に。
OCNのCM
おーしーえぬ、わぉ!ってやつ。しかも2回目のやつ。
あごっていうか、顔をくいっと下げるやつ
その後の、やったーってやつ。
おしまいは何いってんのかわからないけど。
今聴いたら、「で、おじゃる」っていってた。
うちのモノラルTVじゃ聞き分けられなかったけど、ようつべのステレオだと聞き取れた。くそ。まあいい。
で・お・る、は声かわいらしく裏返して。お、はちがった。しかも、る、は、hwひゅ、だ。でも、
撃沈。
もう彼女がやってる発泡酒のCM(麒麟ZERO←いやなページ構成だからリンクしない)は見れない。みたくない。
ていうか、北京オリンピック、どっかのMCだったよなあ、やつは。(MCじゃなくて、フジのスペシャルキャスター役だった。)
それ以外の局の、このOCMのCMだけをみようっと。
とまれ、あの踊り方は、何を意識してるのか知らないけど、
そういえば、ディズニーのミニーが最近CMでおどっているのににているけど、
やっぱ志村けんがすごいってことにまとまるのかな。
東村山いっちょめ、わお。
1:30くらいから
最後にいっちょめってのの、志村のパフォーマンスに、キャーっていう女はエロい。
あの白鳥のくちばしの意味を完全にわかっているから。
sakihito affiché à
01:44
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1日目
午前は特にない。
翌日の釣行にそなえ、午後準備。
狙いは山女魚。大学同期の家族といくつもり。
ちゃっちゃとお準備をしたつもりが、
19時ころラインがないのに気づく。
こないだ買い替えようとはずして、そのままだった。
いそいで新宿上州屋へ向かうが、すでに閉店。
21時越えていたしなあ。
仕方ないから、同期の家へ。
ラインを借りることにする。
速攻で寝て、翌日起きる。
2日目
2時半起床。同期の奥さんが調子悪いらしく、2人で出かける。
奥さんのライン+リールを借りる。
なんだかんだで、5時に到着。二俣尾駅周辺。
既に先客。
うっとうしい先客。
そしてそこはぼくらのホームグラウンド。
舌打ちをしながら、よい場所はないかと釣り上がる。
ただ、今回この付近の多摩川にはコイがアホみたいにいた。
途中で同期が会った釣り師曰く、
「コイがいたら山女魚はムリ」。
でも、釣行は続く。。。
(中略)
結局坊主。
あがったのは10時頃。
同期んちへ戻る。
帰り路は空いていたけど、それより一匹でも釣りたかった。
お昼ご飯を買いにイトウヨーカドウへ。
狙いはサッポロクラシック、でもあるわけもない。
エビスなんかをかう。
ついでに釣れなかった腹いせにお刺身も。
しめさばと盛り合わせ、
あとなんかあるかとおもっていたら、
たこわさのおいしいのがあったから買う。
腹いせに買った所為か、
お刺身盛り合わせにあったイカの刺身に、
アニサキスを発見。
同期がクレームを入れ、イトウヨウカドウは返品、アニサキスのいないお刺身パックを届けてくれた。
その後、同期んちで飲食。
そして夕方帰る。
ねる。
3日目。
お部屋掃除。
中腰を続けた所為か、腰がおかしな具合になっている。
じつは2日目はもっと楽しかったけど、めんどくさくなってしまったのでおわり。
sakihito affiché à
19:50
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なんで、高木中本加藤志村は、
K'sデンキのCMに出たんだろう。
いや、出続けているんだろう。
わからないから、保留。
sakihito affiché à
07:56
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さっき外に出て大通りを渡ると、
信号が全部青で、車が一台もなかった。
道の先は丘の向こうに消えて、
歩くひとはぼく一人。
初夏の早朝は、文句なく、
きもちいい。
それが昼間は郊外住宅街の様相を呈していたとしても。
sakihito affiché à
04:56
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もんのすごく久々にみたCDTV。
でてたよ、ガッキーが。
見受けるに、すっごくあがっていて(初めての唄なのに、「今までにはなかった」っていっちゃってたし。それはそれでかわいい。)、だけど声の調子はそうでもなく、(つたない記憶では、川瀬智子を意識してるのかと思った。)眼力がcoccoに似てる。
エッジをいってるなって意味で。
さらにいうと、こっちの世界のひとではない感じ。
▼「アラガキ、しぼりまーーす」っていうCMは、
やっぱりあからさまに嘘なんだって確信した。
たぶん周りはカワイさを売りたいんだけど、こっちに伝わってくるのは深刻な顔。
カワイイそして深刻。
となりにあるジャコメッティの女版ってくらい深刻。
ってことは、おれはガッキーの作品に好意を抱いているのか...
いいや...とおもいたい。
どの方向にいくかは判らないけど、多分あんまり上昇しない気が...
もしくは相武紗季みたいに再浮上するのかな。
ってことで、決して伝わらない一言を。
二十歳になったら、がばがばのんでくれい。
たぶん似合うぞ。
えらそうだけど、オレは佐藤仁美が大好きだ。
sakihito affiché à
01:43
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と言っていいわけはないけれど、内田樹はそういう人だとおもう。
初期の著作「ためらいの倫理学」からそうだけど、一歩引いている。あるいみへなちょこ。
ただ、この人にはいろいろ惹かれるところがある。
なんといってもレヴィナスの自称弟子であること。
「神・死・時間」「時間と他者」を学生時代に読んで、脳回路を吹っ飛ばされた経験のある(吹っ飛ばされたからには、ここに本があるというだけで、記憶はないが)ぼくにとっては、手に届きにくい研究者の一人(あとは合田、熊野)として厳然としてそこにいる。
ただ、内田は、"手に届くという気"にしてくれる文体を持っている。
手に届くかどうかわ別だけれどね。
最初に彼の本を読んだのは、映画名のパロディである「子どもは判ってくれない」だった。
なぜ彼を知ったかといえば、いしいひさいち「現代思想の遭難者たち」を山形浩生がほめていたからであり、同時に内田の「寝ながら学べる構造主義」を認めていたから。
(出典は朝日新聞の書評)
なぜ山形を知ったかといえば、大室幹雄をネット検索したらまともに評論している気がしたのが彼(と松岡正剛)だったから。
なぜ大室を知ったかといえば、大学院を探していたから・・・とさかのぼるんだけど、
まあいいか。
ぼくの記憶史ではそうなっている。
なんだっけ。
そうそう、内田の評論。
なんだっけ。たぶん骨肉的に反駁しがたいから、「ああ、そうね」と思ってしまう。
のが、彼へ対するぼくの弱み。
局所的には相対論。
大局的には、身体を軸にした絶対論。
いまの経験パワー(経験"値"ではないよ)では、飲み込めても、咀嚼しきれない。
もはや、経験すら必要ないのかもしれない。
"地獄への道は善意で敷き詰められている" ってレーニャンがいってたらしい。
何いってるのかわからないこの文章が、証左です。
なんて、逃げてみる。
お腹痛くなってきたし。あたたたた。
マルクスに怒られる。
sakihito affiché à
22:25
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パスワード管理がうまくいってないようでしかたないんだけど、気のせい?
まあそれはそれとして、
トワイライトシンドロームを再びゲイムしたくなったことです。
トワイライトとは、
夕凪であり、里山と呼ばれるところの肝試しであり、境内で始まる祭りの前であり、"悪い時間"。ただ昼と夜の間を統べているよくわからないもの。
少なくとも夕闇ではないよね。闇では何も見えない/聴こえない/触しえない。
http://www.spike-online.net/yuyami/
http://www.spike-online.net/twilight/index2.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/トワイライトシンドローム
ここで触しえるのは、昼間のものでない者たち。
昼間にぼくらが考えた、昼間でない者たちの姿を、擬似的な視覚と聴覚で触す。
...って、宗教的だなあ。しかもトートロジー的だし。
もしかしたら、ヘレン・ケラーは宗教って概念が理解できなかったんじゃないか。
もっというと、概念そのものがないんじゃないかなあ。
見えるはずのないものが見えるとか、聞こえない声が聞こえるとか、
ぼくらの越権かもとかおもったりして。
そこには昼間のものでない者たちを"拡大再生産"している(笑)。
ただ、
彼女にとっては、触覚しかない。
擬似的な視覚と聴覚で触せない、ぼくらとしての"闇"は、彼女にはなかったかもしれない。
※上記ヘレンケラーの話は、彼女はユダヤ人ではないものの、
[養老孟司+内田樹「逆立ち日本論」新潮選書,2007,255頁]の、
ユダヤ論考をかなり意識しています。(p.p.73参照)
つまり、偶像崇拝を禁じられているユダヤ教徒のうち、盲目や聾唖の人の位置づけはどうだったのかということ。
根本的な問題として、YHVHはどう信仰されているのか。
言葉で与えられたとして、YHVHは発音できないから神はわからず、彫刻で触れることも出来ない、タルムードはあるが、文字を与えられない状況ではその意味を為さない。
ここからどのような強い信仰が生成するのか。
発音できないから神はわからず、という前提がちがうのか。
もしかしたら、彼らはぼくらができない仕方でその仕方を教授しつづけているのかもしれない。
それはそれでかなり不気味だ。
たぶん向こうもそう思ってるはず。八百万の神(eight millions of saint patrons)って、気持ち悪いと。
なんせ、持ち上げの神(相撲すると傍にいるよ)とかいるんだし。
sakihito affiché à
19:44
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暑い。クーラーが壊れているし。
外に行くにも、気力が湧かない。
扇風機すらも、涼しくならない。
缶ビールも全然美味しくないし。
sakihito affiché à
16:37
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それはそれとして、小田嶋がいうように、古舘は力をいれちがえたよう。今日の報道ステーションをみて確信。
それはそれとして、洞爺湖サミットが始まってから、政府の広告ACが増えたなあ。
それはそれとして、古館の言葉は、威勢が良いときにはZ,V,B,D,Xから始まるなあ。
「全体主義だ、これは」「ヴォクはね」「バッカにならないとおもうよ」「同時謝罪すべき」「ズェッタイにね」
好感はもてないけど、持てる人もいるだろうし、まあ、よい。
ただ、いかんせんぼくの恣意的すぎるので、このZ,V,B,D。ぼくの妄想の域を超えない。
それはそれとして、なにかいいわすれてるけど、まあ、よし。
sakihito affiché à
22:19
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東京海上火災日動のCMのBGM。
時計仕掛けのオレンジに使われている曲だよね。
たしか廃墟で女の子一人がやんちゃな若者数人にレイプされそうになっている場面。
それを下敷きにしているCMのメインが赤ちゃんって、どういうことだろ。
CMでも、「ぼくは18になったらクルマを...」から始まり、自信の欲望をとなりの赤ちゃんにうちあけていまーす。
「泥棒かささぎ」っていう(村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」に援用された)有名であろう楽曲だろうけど、たぶんそんなの気づいてないだろうなあ。
と信じたい。
この赤子たちは、a clockwork orangeとねじまき鳥に顕われる順応性と凶暴性と解離性障碍と健忘症におそわれるのかー。
sakihito affiché à
00:12
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brutusに掲載されたおかげで、かどうかはわからないけど、
07/04、上野の森は同世代のやつらでいっぱいだった。
絶対これを見に来てる。
「井上雄彦 最後のマンガ展」
みたかったけど、
...
ってかんじで、みれなかった。
なんせ整理券必要かつ待ち時間80分だしね。
続きはコミックでみるよ。
sakihito affiché à
00:03
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久しぶりに、新宿紀伊国屋南口店へいった。
文庫コーナーのあるペデ直通の2Fばっかりいってたんだけど、
何となく上の階へ。
社会人になる前は、自然科学、人文科学の階へいくことはあったけど、最近あまりなくて、
今回1年ぶりくらい。
案の定、配置が変わっていた。自然科学、人文科学が同じ階にあった。
たまたま手に取った2冊
| 「10+1」INAX出版 | ![]() |
| 「InterCommunication」NTT出版 | ![]() |

sakihito affiché à
21:30
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ナッシュ均衡とパレート最適を完全に忘れている今。
楽しかったはずだから、もっかいやらねえと。
sakihito affiché à
00:03
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かつて糾弾された言葉
「ニンニキニキニニンニキニキニキ ニニンがサンゾウ」
「ニンニキニキニニンニキニキニキ ニシンがゴクウ」
九九ができなくなるってPTAにつっこまれたらしい。『飛べ!孫悟空』ってのらしい。
ニニンがサンぞう、それを覚えたぼくは西へは向かわず極北(あまあまだったけど)の旧帝大へ現役合格。東大京大じゃないからしょぼいけど。
でも、ククがどうのの、かれらが仕切った子どもたちはどうなってんの?
最終目標は宮廷情景装置以外でも、最高学府じゃなかったんじゃないの?
『飛べ!孫悟空』を大好きな人の九九率を調べたくなってきた。うそだけど。
べつにいいけど、それは、あなたのせいでも、ドリフのせいでもないよ。
まして、いまのお笑い芸人のせいでもない。
何時の事大も、「ガキはアホにまみれる」んだからさあ。
親に聴いても意味ないけどさあ。
んでこんどは生きる力たち。
土壌が違うからなんともいえないけど。
とわいえ、
3の倍数の忌みを知るまでは、適当に遊ばせておけばいいんじゃん。
お小遣い2倍の意味は、教えなくても知るでしょう。
もし、うさんくさい力とか受験能力とか、勉強を好きになってくれる力とかをあたえたいなら、
あとは、あなたの蔵書(ないかも)が勝手に与えてくれる力と、
あなたの器量でなんとかなるとおもうけどねえ。
ただし、蔵書収集はウン百万をみつもれー。
ただし、図書館へ行くのがめんどうくさい方のみ。
図書館は、よい。その蒐集的態度が。そのかってな分類学が。
だから、Histoireがhistoryとかstoryにくねくねわかれていくんだ。
学級崩壊の苦労を骨肉しみてる先生、ごめんなさい。
sakihito affiché à
16:40
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これ、あんまり美味しく感じなくなったから。
今日の朝、起きて吸ったところね。
ただ日本のタバコで(Japanese葉巻はないので)これ以上美味しいものはないはずだから、
ってことで、
暫くやめます。美味しいと感じるまで。
ああ、でも青HOPEか黄色PEACEは美味しいかも。
sakihito affiché à
07:22
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緑色はグリーンピースが活動している国たち。(via[ウィキペディア])
組織がある国かもしれないけど、大差ないからムシ。
アフリカ大陸には?
「野生の王国」を守る気はないのか、GPは。
曰く多分「内政で精一杯」ってことなんだろうかなあっと。
じゃあ、啓蒙の必要はまだないんじゃん。
オレらも、クジラ好きの人たちも。
すごく乱暴な言い方だけど、
1.クジラ絶滅
2.アフリカ大陸回帰線内側(とくに象牙海岸の緯度付近)絶滅
どっちを回避すべきかは明らか。同じ手間とお金と倫理を適応するなら。
っておもうんだけど。GPとかSSとかは「かしこくて、人なつこくって、犬猫以上に感情移入できるあたしの分身のクジラが」とかいうんだろうなあ。まあ、クジラはそこそこ美味しいけど、マグロカツオとか、馬には劣るなあ。イルカは生臭い。犬猫は未体験。
sakihito affiché à
09:21
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いろいろ書きたいことはあるんだけれども、
忘れてしまう。
なんかの疾患だろうか...
不安...
sakihito affiché à
08:34
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友人がHPをたちあげたのでよろしくです。
藍染め職人。かつ、
世界初、茶染め(本山茶染め)を確立したらしいので、
今後、御贔屓に。
http://www.washizu-somemonoten.com/
※アップのお手伝いをした。プロバイダはYahoo。ファイルへリンクを飛ばすとき、jpgとJPGを区別されるとは想っていなかったので半日くらい悩んだ。なんだよそれ。20080622追記
sakihito affiché à
08:35
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環境がクジラがイルカがマグロが(via_nippon)石油的資源がっっていってる人たちは、
避難民がジンバブエの警察がっていうのよりも幸せな感じがした。
多分クジラの赤身は美味しくて。まあ、いまとってるミンククジラじゃないはずだけど。
火星に水があるらしい。飲めないけど、ちょっとした希望がそこに...タコ...
sakihito affiché à
04:28
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蛹化の女
月光の白き林で
木の根掘れば
蝉の蛹のいくつも出てきし
ああ
それはあなたを思い過ぎて
変り果てた私の姿
月光の凍てつく森で
樹液すする私は虫の女
いつのまにかあなたが
私に気づくころ
飴色のはらもつ
虫と化した娘は
不思議な草に寄生されて
飴色の背中に悲しみのくきがのびる
月光の白き林で
木の根掘れば蝉の蛹の
いくつも出てきし
ああ
それはあなたを思い過ぎて
変り果てた私の姿
月光の凍てつく森で
樹液すする私は虫の女
sakihito affiché à
03:57
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オザケン♪天使たちのシーン♫
涙流さぬまま 寒い冬を過ごそう
凍えないようにして 本当の扉を開けよう カモン!
sakihito affiché à
02:38
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チャゲアスのこの曲を聴いて、想い返した。
あああ。うさこ。
オスなのにうさこ(うさぎです)。
おれはなにもしてあげられなかったはずけど。っていま思い出した。
YOU SEEK YOUR DREAM?んなわけない。ピョンコピョンコ跳ねてただけだしさ。
名前も国もない 生まれたての元気
all right どんな羽根をくれるの
僕等はいつだって 風邪をひいたままさ
オイルの切れた未来のプログラム
大事に回してる
追い駆けて 追い駆けても
つかめない ものばかりさ
愛して 愛しても
近づく程 見えない
太陽と埃の 匂いを覚えてる
all right どんな種子を蒔いたの
僕が君についた あの日の嘘よりも
上手に上手に はぐれて行く
涙も誘わずに
追い駆けて 追い駆けても
つかめない ものばかりさ
愛して 愛しても
近づく程 見えない
風吹く丘の少年
すべての夢を 手にしたような……忘れない
追い駆けて 追い駆けても
つかめない ものばかりさ
愛して 愛しても
近づく程 見えない
DAY AND NIGHT TIME, RAIN AND SUNSHINE
I SEEK MY DREAM EVERYWHERE
DAY AND NIGHT TIME, RAIN AND SUNSHINE
I SEEK MY DREAM EVERYWHERE
追い駆けて 追い駆けても
つかめない ものばかりさ
愛して 愛しても
近づく程 見えない
sakihito affiché à
01:35
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{ ”地獄への道は善意で敷き詰められている” ってレーニャンがいってた