2009-01-30

死都ブリュージュについて00_前口上

このブログのタイトルでもある死都ブリュージュ(brouges la morte)について、全く説明していないことに気がついた。
「死都ブリュージュ」とは、ジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach)が著した「死都ブリュージュ」のこと。かつては岩波文庫をはじめ各出版社や全集で読むことができたが、現在はほぼ絶版。そのため、実際手に取るには「日本の古書店」で探すかアマゾンで探すか、神保町そのほか古書街で探すか、ブックオフ100円コーナーでさがすかしかないとおもう。(ちなみに自分は神保町で1000円で文庫を買った。ちょっとプレミアがついてたのか...初版ではないはずだし、状態も良くなかったんだけれども...)
もっとも、一番早いのは大学図書館で閲覧すること。(参考:所蔵している大学図書館(岩波文庫版)
最初に読んだのが大学1年生のときの教養の授業だったんだけど、なぜか気に入った。そのときのレポート(にしては短すぎるけど)がこれ

「ブリュージュ」−死と永遠の相関性について−

 永遠とは,歩みを止めた進化である.また,永遠とは,未来に向かって変わらない過去である.その意味を含めて,死とは物事を永遠化する手段としては非常に正しく,死という状態を経ない永遠というものはあり得ない.死によって物事は永久に同じ状態を保つことが可能となり,同じ状態を保つことは死以外にはあり得ない.

 人に関しては生きている以上成長し老化する.一時としてそのときの状態を保つことは出来ない.写真や絵画などにその人の一時の状態を写し込んだとしよう.その写真や絵はあたかもその人のそのときの状態を永遠に残してゆくことが可能であるようにも見えるだろう.しかし,そこに写っている人物は今のその人を形づくる上で経てきた道すじを写しているのであって,今のその人と昔のその人は一本の時間軸で結ばれている.

 よって写真や絵に「映・っ・て・い・る」人は今のをの人に相対的な現象である.今のその人の精神状態,物質的な状態によって,昔のその人の位置は大幅に変わってくる.例えばここにA氏の高校時代の,友人と楽しげに部活を行っている写真があったとする.それを,例えば20年後ある状態におかれているA氏がいたとして,他の人がその写真と今のA氏を同時に見比べたとする.今のA氏が人間関係的に良好なら人はその写真の中に必然性を見つけるであろうし,逆にA氏が泥沼の様な人間関係の中にいるのであれば,人はその写真のなかに不可思議性や矛盾性,偽善性を見い出すかも知れない.

 今という現時点においてそれらの写真はあたかも永遠を映し出しているように見えるかも知れない.しかし未来においてA氏の精神的・物質的状態が一定であるということはあり得ないのであって,その時点でのそれらの状態によって,映し出される過去はその永遠を写したかの様に見える写真の中でさえ変化し得るのである.

 しかし,である.ある物質的・精神的状態の中でA氏が死亡したと仮定する.するとその瞬間,A氏の一生の経路が確定したものとなった瞬間,A氏のその写真は,A氏のその時点の真実の状態を写し出すものとなる,つまりその時点でのA氏が確定し,永遠化されるのである.量子力学における“認識された現在からさかのぼって,過去が創られる”という理論にも似ている.人が生きている状態において,過去というものは“シュレディンガーの猫”(註)と同じ状態なのである.過去に行った行為(猫を箱に入れる)は,人がなし得る行為を全て行った後(箱を開け,猫の生死を確認する)にしかその意味を決定することが出来ない.つまり人が生きている以上過去における行為はいろいろな意味的状態の重ね合わせでしか表現出来ないのである.しかし,死の瞬間に,その死のときの人の状態が一意的に表されるので,それに対応した過去が一意的に定まるのである.そしてそてはその後永久に姿を変えることなく(未来が過去に対しその行為の意味を変え得る場合を除く.例えばローマ法王がガリレオの破門を300年後の現在において取り消すなど.このことは一般の人にはあまり関係ないが一部の献身的なカトリック教徒には彼の見方を変える転機になったであろう)つまり未来に向かって変わらない過去が出来上がるのである.

 「死都ブリュージュ」において,ブリュージュのその永遠に変わることのない様に感じられる町並みも,ひとえにブリュージュが「死都」として描かれているからである.街は灰色や黒といった無彩色で描かれ,それがゆえに静的なイメージをかもし出し,またそれに含まれる有彩色も薄緑や色褪せた煉瓦色という,永遠を感じさせる苔の色や明らかに氏を思わせる骸骨の色などという,時の流れを止めさせる役割を果たしている.夕刻の霧雨は死にゆく街にあっているし,黒い塔は死のシンボルに見えるし,静寂に鳴り響く鐘の音は限りない無と空虚を思い浮かべさせる.祭りも死したキリストに向ける賛美である.何より変わりなく死に続けるユーグの妻や殺されたジャーヌ,出ていったバルブ,そして今後を今まで通りの虚無な暮らしで過ごさなければならないユーグ,これらの人々が織り成す空虚と死のイメージこそが,「死都ブリュージュ」の「死都」たる力なのである.

 一度焼きつけられた「死」のイメージは,「死」が永遠を司る唯一の状態であるために,容易にぬり変えられるものではない.モヘンジョ・ダロや古代文明の跡が,今だに「死」を連想させるのは,それが人々に「永遠」として染み付いてしまったからである.

 以上のことから,死と永遠は一体の存在であるといえよう.死なくして永遠は語れず,永遠の中に潜むのはまぎれもなく死である.また死は永遠を造り出し永遠の中に死は常に生き続ける.ブリュージュを葬ることにより人々の中にブリュージュは生き続け,人々の中に永遠に存在するブリュージュは,「死都」であり続けなくてはならないであろう.

(註):“シュレディンガーの猫”について

ある箱の中に,いつ崩壊するか全く分からない放射性元素を入れ,もし崩壊すれば直ちに毒ガスを噴射するように作られた機械を置く.その箱に猫を入れると,猫の生死は全く分からなくなる.箱を再度開けるまで,その猫は生きているし死んでいるのである.つまり箱の中の猫は生死の重ね合わせとして表現されるのである.という量子力学のパラドックス.


この本の情景を記述するとこんな感じ。アマゾンカスタマーレビューより
大学の授業で何年か前に読みました。
象徴的な意味で、死ぬことなしには永遠という行為が得にくいこと、永遠であり続けるには、死に続けるしかないということが感じられます。死に続けるとは、時間を止めることなのか。
無彩色のまち、黒い塔、鳴り響く教会の鐘、死したキリストを賛美する祭り。動いているはずのお話の中のまちが、時間を止めるように描かれているのは、まちを穏やかに死に続けさせるためなのかと思われます。そして死に続けるまちは、ずっとユーグのものとなる。


どっちも書いた時期がかなり古い。特に、アマゾンのやつは記憶をたどりながら書いただけで、再読した結果書いたものではない。
だから、
もう一度読み直して、死都ブリュージュが表象する世界、環境世界はなんなのかを確認しようと思う。
ただ、いま手許にその本がないので(家の中でどこかに埋もれている)、再確認はおいおいってことで。

本人の情報に関しては、英語版wikipediaに比較的詳しく記載されている。

2009-01-27

the man who wanted to be ARCHTECT

and he was sakihito...

←↑©nhk


西沢立衛を初めて見る。もちろん、建築メディアの外で。

今日のNHK総合「爆笑問題のニッポンの教養」で、「建築のチカラ」と題して、ルーブル美術館分館のことなんかを放送するらしい。

立衛が単独で、しかも爆笑問題と。

初めて彼の名前を知ったのは、1998年1月号の「STUDIO VOICE」でだった。その雑誌ではたしか彼のお兄さんと一緒(ただし、作品は別)で、[妹島和世+西沢立衛]とか[SANAA]とかの名前では出ていなかったはず。
それがいつのまにか、妹島とセットで建築メディアに露出するようになって(実際自分も青山のギャルソンで二人のお買いもの姿を見ました。)、2人が一緒にいるのが一緒のように思えていた。

それが一人で。しかも美術館。

ひと昔前だと、美術館は磯崎新のものだったけれども、最近の美術館といえば、Herzog & de Meuronテートモダンとか、谷口MOMA増築とか、SANAAの金沢のやつとか、似たのだと伊東豊雄メディアテークとか。そうそう、黒川紀章国立新美術館も。

でも、黒川のを見る限り、美術館て難しそうだなあ。
立衛はどういじるのか。新聞のラテ欄には「建築」「都市」とかいうフレーズがあったけど、それでいくと立衛は磯崎の亜種になるのかな。それとも、彼なりの伊東→妹島ライン上にあるのか。

こんな30分番組でそこまで読めるかわからないけど(時間的にも自分の器量的にも)、それは爆笑問題の太田に委ねてみることにしますです。

【追記20080128】
観ました。
前述の「建築」「都市」は、「建築」「環境」の間違いでした。すみません。
あと、美術館がメインではなく、彼が設計した集合住宅での対談で、住意識とか、住まうことによるお隣意識、環境意識、都市意識が主でした。

ただ、かれは環境世界という言葉を使っていた。
この言葉が一般的なのか、「建築を取り込むものやこと」として意識しているのか、
ユクスキュルの「um-velt(ウム;ヴェルト=環境世界)」←(生物から見た世界より)を意識したのかはわからないけど。でも、一番はユクスキュルを意識してるでしょ。
ここには○○がある。○○には××の世界の見方がある、○○からは世界がこうみえる、ってことで。って現象学症候群?

あとひとつ。
やっぱかれは造形的に「伊東→妹島ライン上」でした。外部を取り込みながらも、内部を主張する。箱をぽこぽこ置いているようで、その箱の配置は絶妙。そういえば金沢の時も、外部は円だけど内部はうまあく四角をぽこぽこおいていたしなあ。かといって、磯崎の群馬県立美術館のようなフレーム重視の配置ではないし。面重視っていうか、ボリュームの外側に現れる面的なものの相関に最新の注意を払っている。
ルーブルの分館(別館。ランスにできるらしい)の模型をみてそうおもった。

あとは、かれは磯崎的ではない。建築が国家をつくるとは思っていない。ましてや、国家にはあまり関心がない。関心があるとすれば、この番組からは「結果としての都市」だろうなあ(ポリスのことは念頭にあるとは思うけど)。けもの道という言葉を彼は使っていたけど、そういうつくりのものが都市(古来からの)だと。歴史が都市だと。っていうと歴史人類学の問題になるねえ。
磯崎の「国家」解釈がどういうものかをよく知らないくせにいっているけれど。これに頼って。
建築することとは、単に街や建物を設計することではない、
人々が生きているその場すべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、
それを眼に見えるよう組みたてることだ。
これが、私たちが教えていただいた<建築>の本義であります。


立衛への見方がちこっとかわりました。
ヒルサイドなんかにいこうとしているのかなあ...

2009-01-09

こんなんですけど。